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『超宗教』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

本教のモットーとする、病貧争絶無の世界、地上天国建設などという事は、先ず大抵の人は痴人の夢としか受取れないであろう。成程キリストは、「天国は近づけり」といったが、天国を造るとは言わなかった。釈尊は、「仏滅後弥勒の世が出現する」とは言ったが、それは五十六億七千万年後という箆棒(べらぼう)に長い年月後を言ったが、弥勒の世は目前に迫っているとは言わなかった。猶太(ユダヤ)教徒がメシャ降臨を祈願し目観説話集てはいるが、それは何時だか判らない。印度に於る古来からの伝説、転輪菩薩の出現も、天理教の甘露台の世も、日蓮の唱えた義農の世も、大本教祖の唱えた松の世も、時をはっきりさせなかったという事を、深く考えてみなければならない。以上の何れの予言をとってみても、立派に役立っては来たが、さらばといって実行の宣言も、実現の企画もなかったという事は、時期尚早の為と解すべきであろう。そうして、それ等各宗祖によって説かれたり、実践された事が基礎となって、今日あるが如き各派の宗教となった事は、誰もが見る通りである。

勿論全世界の各民族や国家に適合すべく、教義の建前、形式、方法等各宗祖が創成し、弘通させたのであって、その時代、地域、民族、伝統、習慣等に必要当嵌るべき手段方法等を、主神の意図の下に行わしめ給うた事は言うまでもない。それによって和の精神を養い、今日の如き絢爛たる文化の発展もあり得たのである。もし世界各国に、仮に宗教が生れなかったとしたら、悪魔の横行は、其度を知らず、世界は己に破壊滅亡していたかも知れないのである。それこれを考える時、今日迄輩出した宗祖聖者等の功績は、如何に高く評価されても決して過ぎる事はないであろう。

前述の如く、既存の宗教の力が、世界の滅亡を喰い止め得たとしても、今日、及び今日以後の世界に対し、引続き役立つかは疑問と言わねばならない。何となれば、現在世界を見る時、如何に地獄的苦悩に喘ぎつつあるかで、之を喰止め、天国的状態にまで引上げるには、既存宗教の力では不可能である事は、現在を救うにさえ力足りない有様は、それをよく物語っている。事実今日の輝かしい文化の恩恵に浴し得るものとしては、限られたる一部の民族でしかない。そうして右の原因としては余りに和の精神に乏しく、あまりに闘争に耽り過ぎる事である。

以上の如く現在の世界を観察する時、どうしても之等無明暗黒を解消すべき、一大光明が表われなくてはならない時期と、心ある者は期待せずにはおられない。即ち超宗教的救いの力である。

吾等は此意味に於て、超宗教としての任を負わされたものとの自覚によって、着々実行を以て驚異すべき成果を挙げつつあるのである。

『五六七世界の建設』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

吾等が唱える五六七世界の実相は目下執筆中で、何れ発表するつもりであるが、茲では五六七世界建設までの過程に就て些か述べようとするのである。

勿論、五六七世界とはキリストの予言した天国であり、釈迦の唱えた所謂みろくの世である。然るに此理想世界たる五六七の世は、今や呱々の声を挙げんとする寸前に迫っている事である。

私の霊感によれば、今霊界に於ては既に五六七世界の土台は築かれたのである。之によって近き将来、いとも現実的に此地上に出現する事は、疑う余地はないのであるから、何と有難い時節に生れたものではないか。之を慮う時、吾々は歓喜が湧き起るのである。

それに就て知らねばならない事は、例えば今茲に一大豪壮な建築物を建造せんとする場合、今迄その土地に存在していた古い家は破壊されなければならない。勿論その古材の中から、新建築に役立つものを選び・ 洗い浄め、削り治して使用する事は勿論であって・ 今や五六七世界建設に当っても、それと同自盤様な事象が行われるであろう。それに就て今後発生する凡ゆる事態が、人間の眼からみて理屈に合わないような事や、無益と思う事、破壊的の事等もあるかも知れないが、それは汚穢の一大清掃である事を知らねばならない。然し一切は神意の具現である以上、人間の凡眼によって、兎や角判断する事は出来ないとすれば、人間たるもの大いに謙譲の態度を以て、一切の推移に順応すべきである。此事を霊感によって知識し得た吾等は、常に偉大なる神意を曲解せざるよう戒意し、正しい神観を以て今後人類の経験にない、如何なる異常事や崩壊作用も、信仰に徹する者の特権として与えられたる安心立命の境地に住し、生を楽しみつつ時を待つべきである。

斯様な甚だ掴み所のない言い方も、深遠なる神の密意は現在具体的に言う事を許さないからである。要するにミロク世界実現前、当然経なければならない其過程に対処する心構えを述べたまでである。

 

『主の字』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

私は常に、順序を正しくせよと言うが、此順序をタッタ一字で表わしたのが、「主」の字である。今此主の字を解剖してみよう。

上中下の横樺三本は天地人、日月地、五六七、神幽現という意味で、それを経の棒が貫き、一番上にヽ(チヨン)、が乗っている。之が正しい順序で、政治でも、経済でも、教育宗教でも、一家庭でも、一切万事此形でゆかなければならないのである。処が、今日まで凡ゆるものは、大抵経緯が別々で、その最も大きなものは、経の東洋思想と、緯の西洋とで、離れ放れであった。処が愈よ時節到来、十字に結ぶ事になったのである。即ち主の字の真中が十の字であり、上下の横棒は天と地である。つまり人間界は天地の中間であるから、人間界が十字に結ばるという訳である。之が地上天国の実相で、即ち十字の形の神の世界である。神という言葉もその意味である。力とは火、ミとは水で、火は経に燃え、水は緯に流れる。之が結んでカミというのである。神御産霊(かむみむすび)、高御産霊(たかみむすび)という通り、神の御働きは結びである。又仏はホトケであり、ホドケル言霊であるから、ホドケている世界を、神が結ぶというのが、今や来らんとする大転換である。キリスト教徒が胸に描く十字架もそれの暗示であり、仏教の卍も同様の意味で只だ「教の卍は、十の字の一つ一つが枉(まが)っている、之は十の字に結ばると共に廻転が始まる」という訳である。以上の意味によって一切は三段階でなければうまくゆかない。上下を真中の十でしっかり結んで、上下の棒を支えている、という事は、中産階級が上層と下層階級を調和させる役という意味にもなる。そうして一番上に首脳者が座って主宰するのであるから、主の形にすれば、何事も破綻なくうまくゆくのである。政治でも、会社経営でも、団体運営でも、理屈は同じで、吾等が常に唱うるミロクの世の姿である。

 

『観音力とは何ぞや』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

昔から、妙智力又は観音力というが、勿論妙智力は観音力と同意味である。世に阿弥陀力とか、釈迦力、達磨力などいう言葉がなく、ただ観世音菩薩だけがその力を唱えたという事は、不思議であると共譲に、理由がなくてはならない筈である。之に就て、文献もなければ言伝えの如きものもない。私は以前鐵から此事に就て疑問を抱いていたが・ 信仰が進むにつれて、実にはっきり判る事になったので、それを解説してみよう。

それに就て今一つの疑問がある。之はよく聞かれる事であるが、観世音菩薩は男性であられるか、女性であられるかという点であるが、之こそ、観音力と密接不離の関係があって、実をいうと世尊は男であり、女であり、いわば両性を具備され給うておらるるのである。

そうして、男は陽、女は陰である事も、昔から誰も知っている処で、火水に分ければ、男は火で、女は水であり、火は経に燃え、水は緯に流れる。此経緯がいよいよ結ばるという時が来たのである。

又光とは、火と水の密合であって、火素の量が勝つ程、光は高度を増すのである。此理に由って、昼の世界は、火素の量が殖えるから光が強くなる。観世音菩薩の御働きが、光明如来と現ぜられる所以である。

次に最も重要なる点は、経緯の結合する事によって真の力が発生する。力という字は、経の棒と緯の棒と結んで曲り、その先端が撥ねる。之は結ぶ事によって、左進右退的回転力が発生躍動するという意味で、全く文字なるものの意義深きを思わしむるものがある。以上の如く観世音菩薩に限り、経緯両性を具備さるるのは、経緯の結合によって力が生ずるそれで、特に観音力という所以である。

序いでに、今一つの重要事をかいてみよう。観世音菩薩は光明如来と現じ給い、次は、弥勒又はメシャの御活動をなされるのである。前述の如く、光は火と水であるが、之に土が加わる事によって、火水土の御働きとなる。元来火と水だけでは霊の御働きだけで体がないが、之に土が加わって、初めて火水土の三位一体の力を発揮されるので、之が如意宝珠であり、麻邇の玉である。又火は五であり、水は六であり、土は七であるから、五六七の数字をミロクと読むのである。彼の釈尊の予言にある五十六億七千万年後、五六七の世が始まるという事は、此五六七、即ち火水土の順序正しき世界が出現するという事でなくて何であろう。

そうして如何に釈尊が大予言者と難も、実際の五十六億七千万年後というが如き天文学的数字の未来を予言し給う必要があろうか。それは何等の意味をもなさないからである。先ず予言の価値としては、精々数千年位が実際に即している。キリストの三千年後の予言などは、洵に適切な年数であろう。

観世音菩薩のミロクとは、応身弥勒の事で、それは仏説の通りであるが、今後此応身弥勒の千変万化の御働きこそ、割目して見るべきである。

又五六七の数も三六九も合計十八である。十は結びであり、八は開く数である。観世音菩薩の御本体は、一寸八分の黄金と昔から定っており、御堂は十八間四面と言う事なども、意義深きを思わしむるものがある。

 

『真理の具現』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

抑々、宗教の真の目的は何であるかといえば、言う迄もなく真理の具現である。真理とは何ぞやというと、勿論自然そのままの姿を云うのである。東から太陽が出て、西に沈むという事も、人間は生れれ いわゆるば必ず死ぬという事も、之は仏説の所謂生者必滅会者定離という事であり、人間は空気を呼吸し、食物を食う事によって生きているという事も、勿論真理である。こんな判り切った事を言わなければならない程、人類の現状は出鱈目になっているのである。

右の理によって、現在社会万般に渉る混乱、闘争、無秩序、罪悪等の忌わしい事象を見ても、人類が幸福になるよりも、不幸になる条件の方が多い事は否み得まい。とすれば、その原因が奈辺にありやを考えてみなくてはならない。私の見る処では、一切の根本が真理に遠ざかり過ぎているからで、それが あまりにも明かである。ただ真理に遠ざかっていながら、それに気がつかないだけである。然しながら、それは何が為であろうかを茲に検討してみるが、実は現代人は真理そのものさえも判らなくなっている。というのは生活問題の窮迫に真理など考える余裕が無いからでもあろう。尤も、肝腎な宗教でさえ、今日迄真理そのものがはっきりしなかった点もあり、真理と思って非真理を説く事が多かったのである。もし真理を真に説き得たとしたら、人類社会は現在よりもっと良くなっていなければならない筈である。或は天国楽土が或程度実現していたかも知れないと思う。然るに天の時来って茲に神意の発現となり、 私を通して真理を説諭すると共に真理の具現を遂行さるる事になったのである。故に私が説く処の諾々の言説は、真理そのものを万人に最も解り易く宣示する以上、読む人は虚心坦懐白紙になって熟読玩味すれば、髪髭として真理は浮ぶであろう。

右によって私は最も手近な所から説いてみるが、人間が病気をするという事は、真理に外れた点があるからであり、それを治し得ないという医学は、之亦真理に外れているからである。政治が悪い、思想が悪いという事も、犯罪が殖える、金詰り、インフレ、デフレで苦しむという事も、どこか真理に外れた処があるからである。もし真理に外れていないとすれば、正しい事は人間の希望通りにゆく筈で、其様に人間社会を神が造られているのである。故に思想的善美な社会も、人間が歓喜幸福の生活者たり得る事も、敢て難事ではないのである。即ち私が唱える地上天国出現の可能性も茲にあるのである。

此様な訳であるから、私の言説には随分異つた点があると思うであろうが、実は些かも異ってはいな い。至極当りまえの事である。異っていると思うのは非真理の眼で見るからである。私の説が異説と思えば思う程、社会の現実が異説的な為である。

神は人間に対し無限の自由を与えている。之が真理である。人間以外の動植物には限られる自由しか与えられていない。茲に人間の尊さがある。然らば人間の自由とは何であるかというと、人間向上すれば神となり、堕落すれば獣となるという両極端のその中間の位置に存在しているからである。此理を推進する時、斯ういう事になる。それは人間の行り方次第で、此世はいとも楽しい楽苑ともなり、その反対であれば、いとも悲惨な地獄ともなる。

之が真理である。とすれば、人間は右の何れを選ぶべきか、考えるまでもなく先天性の悪魔でない限 り、前者を欲するのは当然であろう。

右の如くでありとすれば、前者の天国世界の実現こそ、人類究極の目的であり、その目的達成こそ、 真理の具現あるのみである。そうして、それが宗教本来の使命である以上、私は常に、筆に口に真理を 教え、尚且つ真理の具現者として、日も之足らず努力活動しつつあるのである。